2020年に開催される予定だった「第25回登校拒否・不登校問題全国のつどいin京都」はコロナ禍のために3年間待たされました。世の中は何か変わったでしょうか?教育が「人格の完成をめざす」のではなく、将来、国や企業の役に立つ「人材」を養成するものにすり替わったことは、何も変わっておりません。
コロナ禍のために人と人とが対面で向き合う教育環境がデジタル機器に置き換わり、学校がより一層複雑な人材づくりの競争環境に追い込まれることになりました。子どもたちはあらたな環境に追い立てられるつらさを抱えながら、それでも健気に生きています。
「生命」の実物は将来ではなく「いま・ここ」を生きています。生きるということはなによりも五感で「感じる」ことです。子どもの「生命」に寄り添い、生きることに寄り添うことは、子どもが「いま・ここ」で感じている気持ちに寄り添うことです。
ところが私たちはついつい子どもの将来のことばかりを気にかけ、子どもの「いま・ここ」を犠牲にして国や企業の押し付ける新たなデジタル機器を使い、将来の人材として必要な資質・能力を身つけさせるための教育に子どもを追い立てることになりがちです。
「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感は、たとえば子どもの「死にたい」という「いま・ここ」の呟きに込められた気持ちを「死にたいほどに辛い気持ちなのだね」と、親や教師によってしっかりと受けとめられ「死にたいほどにつらい気持ちの自分であっても大丈夫」と安心することでふくらむのです。
私たちがそのように子どもと向き合えることは、日本国憲法13条が謳う「すべて国民は個人として尊重される」の文言を現実に活かす国民であろうとすることです。「尊重される」は英語では「respect」の言葉が使われています。RE-SPECTです。「見直す」という意味です。「あなたのことを見直したよ」のあの「見直す」です。
いま、私たちは先を急がされる生活のなかで、「忙しい」「忙しい」と心と時間の余裕を失い、対面で相互にアイコンタクトをとり、相互の気持ちや想いを伝えあう時間や関係を亡くしているのではないですか?それでは互いを「見直し」合い、「尊重し」合うことはできません。忙しくゆとりを欠いた心は「相」「合い」「愛」を見失っているようです。
こんなときにこそ「全国のつどい」の意義がますます強くしっかりと「見直され」なければなりません。地元をはじめ全国からも多くの方に参加していただき、実行委員会を発足させたいと思います。コロナウイルス感染の危険がまだ残るなかでの「実行委員会」の持ち方を工夫しなければならないでしょうが、実行委員会は「つどい」つくりに参加したい方が自発的に悩みや願いを持ち寄り、相互の気持ちを見直しあい、心を合わせ手作りで「つどい」を作り上げていく場です。
事務的に会議を進めるのではなく支え合い、愛と希望をつむいでいただけるような場にしたいと願っています。多くのみなさんのご参加を心からお待ちしております。また実行委員会に参加できなくても、お手紙やメールなどでお気持ちやご意見を寄せていただくなどさまざまな形で協力していただけますようにお願いいたします。
世話人代表 高垣忠一郎